映画『みらいのうた』感想|吉井和哉の苦闘と、人生の「2番」を書き続けるということ

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※本記事には映画の具体的な展開に触れる表現が含まれますが、核心的な結末(ネタバレ)には配慮して執筆しています。

生老病死。

人間である以上、誰もが直面し、避けて通ることのできない現実。

それは、どれほど眩い光を放つロックスターであっても例外ではない。

この映画を観て、わたしの脳裏に最初に浮かんだのは、吉井和哉の音楽そのものよりも「死」という剥き出しの現実だった。

櫻井敦司、チバユウスケ。偉大なミュージシャンたちの死に直面するたび、思い知らされる。ロックは永遠でも、奏でる肉体には限界があるのだと。彼らだけは例外だと、いつまでもステージに居続けるのだと、わたしは勝手な聖域を築き上げていた。

しかし、人は老い、やがて死ぬ。ロックスターという偶像の裏側にも、肉体を持つ一人の人間としての限界は等しく存在する。

咽頭がんが突きつける「生」の現実

そんな文脈の中で映し出される吉井和哉の姿は、あまりにも生々しい。

喉頭がんを患い、声が出ない、歌えないかもしれないという窮地。ロックボーカリストにとって、喉を奪われることは単なる故障ではない。自分という存在の根幹が揺らぐ、アイデンティティの危機だったはずだ。

それでも、彼は生きている。そして再び歌おうとしている。

同世代のロックスターや身近な人々の死を間近に感じるからこそ、「生きて、今ここにいる」という事実が、この映画では異様なほど重く、切実に胸に迫ってくる。

eroさんの「2番」が教えてくれた、不器用な生の肯定

映画の中で、ひときわ印象に残ったのがEROさん(元アーグポリス ボーカル)の存在だった。

彼は若い頃に書いた楽曲に、長い年月を経て「2番」を書き足し、歌う。

その歌は、万人に評価されるような代物ではない。お世辞にも「売れる」とは言えず、おぼつかない手つきのギターに、決して洗練されているとは言えない歌声。若さゆえの勢いも、かつての鋭さもそこにはない。

けれど、その歌には確かに彼が生きてきた時間が詰まっていた。

失ったもの、抱えてきた傷、それでも一歩ずつ進んできた年月。

無理に美化せず、綺麗にまとめようともしないその表現は、だからこそ「真っ直ぐで、誇り高い作品」としてわたしの目に映った。

人生という作品の「2番」を書くこと

若い頃、死はどこか他人事だった。知識として「人は必ず死ぬ」と知ってはいても、自分に襲いかかるリアリティとしては捉えていなかった。

しかし歳を重ね、病や死が身近に忍び寄ることで、その事実は容赦なく牙を剥く。

一時代を築いた吉井和哉でさえ、若い頃の圧倒的な華やかさと比較すれば、今は「人生の夏」が過ぎ、花が枯れ始めた時期なのかもしれない。若さが正義とされ、過去が美しく輝く世界において、病や老いと対峙するのは残酷なことだ。

それでも、歩みを止めてはいけないのだと教えられる。

「1番」を鮮烈に書き上げただけで満足してはいけない。全盛期と比べてたとえ劣っていると言われようとも、今の自分にしか書けない「2番」を綴り続けること。

人生という作品を、最後まで未完成のまま終わらせまいとするその姿勢に、わたしは強く惹きつけられた。

人生という楽曲を投げ出さない

『みらいのうた』が映し出したのは、単なるアーティストの記録ではない。老い、病み、そして死にゆくわたしたちが、それでも「今」をどう肯定して生きていくかという、極めて普遍的な問いだった。

かつての煌びやかな「1番」を懐かしむのは、もう終わりにしよう。 たとえ声が掠れ、ギターを持つ手が震えたとしても、今日を生きるわたしたちが紡ぐ「2番」には、何物にも代えがたい価値がある。

人生という長い楽曲を、未完成のまま投げ出さないこと。 枯れ始めた花さえも愛おしみながら、わたしもわたしなりの「2番」を泥臭く書き続けていきたい。 スクリーンの中で歌い続ける彼らのように。

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